A button is a button!(The interface based on feeling)

公園で走り回る子供の声、ハイヒールの心地よい音、街頭演説、
電車のレールのひしむ音、車のクラックション、
校庭から響く部活の掛け声、
はたまた上空から聞こえるヘリコプター
休日に知らない街をぶらつくのがいつの頃からか習慣になった。
その街その街毎に変わった色を感じるのは非常に面白い。
ふと、目をつぶって暫く街の音に耳を傾けてみてほしい。
・・・ ・・・ ・・・
きっと様々な街のいたる声が聞こえてくるはずだ。

“聴覚”だけで一瞬にして様々な情報がInputとして脳に流れ込んでくる。
Input材料は人それぞれで、またその材料から何をしようとアクションを行うのも人それぞれだ。
きっとそれは意識したものではないはず。

決して私はインターフェイスや心理学といった専門学歴があるわけではない。
ただ、仕事の中で学んだことがある。
“インターフェイスとは当たり前のものであり意識してしまうものはインターフェイスではない”

インターフェイスと言ってしまうとかたっ苦しくイメージが狂うため例えば”ボタン”を例にとってみよう。
“ボタンはボタンであり、意識してしまうボタンはボタンではない”
正直、何を言っているか分からなくなるが、これが言いたいことである。

小さい頃、良く道端に落ちたガラクタをいじっては分解や改造してみることが好きだった。
「剛!またいじってるのか!?壊れるからやめなさい!」
親父の大事な、でかいステレオコンポーネントの”ボタン”をボチボチ押しては叱られていた記憶がある。
(現に高いヘッドホンを見事に壊した・・・その後、こっぴどく叱られたことは言うまでも無い)
無意識に電化製品の”ボタン”を押してはLEDが光ったり、LPが回り始めたり、
カセットテープが出てきたりすることが楽しくてしようがなかった。

つまり、
“我々人間はモノを扱う上で何か意識しようとしてモノを扱っているわけではない”
のだ。

モノによっては無論、意識しなくてはいけないモノもある。
ただし、本質はそこではない。

アウストラロピテクスは、獣の肉を切り刻むために石を磨いた。
それだけでは力が入らないため、手という自分のインターフェイスで握ることの出来る棒をつけて斧を作った。
それは、棒があるから握れるのではなく握りたいから棒をつけたのである。

“ボタン”もそうだ。
人間の5本の指というインターフェイスをつかって微力な力を加えるだけの、
いたってシンプル・意識のさせないインターフェイスだ。
(なぜ?人間のインターフェイス指は5本なの?という問題はまた別にしよう。6本だっていいのにさっ)

ただし、意識しないインターフェースを作ることは非常に難しい。
何故なら作り出すこと自体が、意識しなければならないからだ。

“ボタン”を触ってはLPが回りだすのをぼ〜っと見ていた幼い頃の自分は何を考えていたのだろう。
押すからテーブルが回る。回るから押す。すると止まる。
非常にシンプルなインターフェイスだが、これが人間の心理に繋がることなのかもしれない。

ぼ〜っとしていたであろうが、この瞬間にも”触覚””視覚””聴覚”を使っていたのだ。
人間の心理とは、様々な感覚をもってして判断し得るものだ。
その感覚に逆らおうとすると”ストレス”が発生する。
ストレスが発生しない優れたインターフェイスとは、
人間の生きる上で欠かせないInputとされる感覚を活かしきれているものなのではないだろうか?
きっと本質はここにあるのではないかと。

・・・ ・・・ ・・・

私はUI設計者として、

“ボタンはボタンであり、意識してしまうボタンは作りたくない”

と考えるのである。

セレブ気取りのおばちゃん同士の会話、親に叱られる子供の泣き声、
信号待ちでケンカをしているカップル、安売りの宣伝文句と店のテーマソング、
風に揺られる小枝のきしむ音、街角の弾き語り。

今日も知らない街の騒音が心地よい音色に聞こえる・・・。

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